以下はあくまで私論に過ぎません。読まれた方のご意見を賜り議論を深化させていきたいと思います。
***
最近はあまりやらないが、「三角形でないものをひとつ挙げよ」と言って、一人ずつ答えさせていくことをよくやった。大概は「四角形」「五角形」から始まるので、「キリがないから☆角形は全部出たことにしよう。それから?」と言って続けていく。すると次の人はちょっと困ってから「直線」「円」と続き、それから「円柱」「立方体」など登場するというのが一般的パターンだ。最初に答える人が「ネコ」ということはほとんどない。「三角形でないもの」を一つ挙げればいいのだから、ネコだって月だって電子だって、「もの」であって三角形でなければ何だって論理的には正解だ。
しかし日常において、「それがさぁ、三角形じゃなくてさ」「それじゃゴキブリか」では会話が進まないだろう。雑談なら冗談で済むが、会議の最中にこんな無駄な会話をしていたら非生産的なこと間違いない。そこで思考の範囲を定めること(集合論なら全体集合を定めること。フレームを設定すること。)が必要になってくる。(余談だが、数学の論文はまずフレームを宣言するところから始まる。)なにかのプロジェクトのコンテンツを議論するときなら、最初に「予算」「準備期間」「達成すべき目的」などを確認するのは、発想のフレームを設定しているのだ。そのフレームから外れるようなアイデア(たとえば大幅な予算超過)は、たとえどんなに優れたものだったとしても考えるだけ無駄になる。
ところがフレームは明示されるとは限らない。お腹が空いたとき、ファーストフードではなくてガッツリ食べたいなと思って、候補として銀行を考える人はいないだろう。何か食べようとすれば、飲食店に入るか、総菜や弁当を買ってどこかで食べるか、自分で作るかというフレームで考えているけれど、それをわざわざ意識することは少ない。つまり、さまざまな経験から暗黙的なフレーム設定を学習していくのだろう。
さて三角形の話しに戻って、なぜいきなりネコと答えないのだろうか。それは答える側が質問の意図(論理コンテクスト)を考えるからではないか。あるいは、自分は何と答えることを期待されているのか(関係性コンテクスト)を推し量るのかもしれない。(注:論理コンテクストや関係性コンテクストは、ぼくが使っている言葉です。詳しくは
こちらをお読みください。) そしてヒントになるのは「三角形」「ではないもの」しかないので、無意識のうちに「あぁ平面図形の話しか」と、
勝手にフレームを設定してしまうのだろう。
いろいろな経験を積めば、暗黙的なフレームは増えていく。それは進歩だ。だから「三角形でないものをひとつ答えなさい」と言われた子どもが、「ネコ」と答えたところで、それは無知なる所以であろう。けっして柔軟な発想とは、客観的には言えまい。いろいろなフレームを知っている大人にはない答えだから、柔軟に見えるだけではなかろうか。
では「
セコメントをする